写真が上手くなりたいんだがどうしたもんか(第二回)

さて、前回のまとめ。

良い写真がどういうものなのか、イマイチよくわからない。

自分がなんで写真を撮ってるのかも、よくわからない。

とりあえず今の自分はそこそこ見れる被写体を選んで、そこそこ人にウケる写真を撮れなくはない。

でもそれがいい写真だとは自分ではあんまり思わないし、そういう写真を撮ってても前に進めないような気がする。

じゃあどうしようか。


という感じの話でした。



話が散漫になってるのは考えがまとまってから書いてるのではなく、書きながら考えるという方法でやってるからですね。

結論が最初からわかってる話は考えてから書けばいいんですが、今回のは結論が何かよくわからない話なので、こういうスタイルでやってみようと、そんな感じです。暇な人はお付き合いいただければ幸いです。



さて、前回書かなかったんですが、世間的には「良い写真を撮る方法」みたいなものはけっこう広く行き渡っています。

構図がどうのこうの、シャッター速度や絞りがどうの、露出や現像はこうした方がいい的な、そういう技術的な話だったり、あるいはこの季節はどこそこに行けばかれこれという写真が撮れる的な、そういう話です。

カメラ雑誌とかはほとんどがこの手のノウハウで記事が埋まってて、そういう本が何種類も出てるのでそこそこ需要はあるのでしょう。

僕も写真始めた頃は、その手の本を何冊か買って、記事を参考にしつつ写真を撮ったりしたのですが、すぐに飽きました。



何でかというと、そういう記事を参考にしても記事に書かれた以上の写真は撮れないからです。記事はたいていプロが撮ったものなので、技術的に欠点はほとんどないだろうし、そもそも撮る前に記事を見ているわけですから、手法を真似して撮った自分の写真にも既視感が出てしまうからですね。


たぶん、「既視感」というのが、僕の考える「良い写真」のキーワードの一つだと思います。

前回の記事で「良い写真」のとりあえずのポイントは「感動すること」だと一応定義したんですが、感動するためにはそれは見慣れたものじゃダメだと思うわけです。

どんな音楽でも芸術でもいいんですが、最初にそれに触れた感動は回数を重ねるごとに褪せていきます。「今まで見たことがない」ことが感動の要素の一つなんじゃないかなと。なので、繰り返し撮られたモチーフや構図、被写体には基本的に既視感を抱く。そうなると、そこから生まれる感動は弱くなるんじゃないかと思うわけです。


じゃあ、常に新規で奇抜であればいいのか、というとそんなこともなくて、いくら新しいものであっても良くないものは良くないです。そもそも最初から理解できないものは、感動も何も産まないわけですから。一部の現代美術みたいに、あちら側に行きすぎてわけわからなくなっても、それが人に伝わらないんだったら、やっぱりあんまり意味はないんじゃないかと。

ということで、たぶん良い写真というのは

「使い古されて陳腐になってしまったもの」


「新しすぎて理解不能なもの」

の間にあるんじゃなかろうか、と


少なくとも、今、安易に手にできるような撮影方法や、構図、被写体では、たぶん人は感動しない。何でかというと、僕らはメディアに囲まれて生きているからです。

テレビ、雑誌、街頭のポスター、ネット、ありとあらゆる場所で「画像」を目にするし、それを避けて生きることは不可能です。それらのイメージは広告と結びついている事がほとんどで、広告というのはたくさんの人の目を集めるためにキャッチーなものが意図的に選ばれてます。

逆説的ですが、現代に生きる人たちは「人の注目を集めるキャッチーな画像に晒されすぎて、それ自体に飽きてしまい不感症になってる」んじゃないかなと。

なので、ノウハウ本が「簡単に撮れる」と提示するキャッチーな画像を、僕が再生産することに、少なくとも自分は意義を感じないわけです。もちろん、結果的にそういう既存のイメージの影響下にある写真を撮ってしまってるとは思うんですが、少なくともそこから離脱するという意志を僕は持っていたいなと。


たぶん僕が撮った中で一番キャッチーなのはこれ



でも、じゃあどこに行けばいいんだ?というのが全く見えないので、ちょっと話を変えてシグマの話をします。僕が自分の写真について考えるとき、シグマとフォビオンの話は避けて通れないので。


結論から先に書いてしまうと、シグマでなければ自分の写真は撮れないということは、全くないです。

以前友人の持ってたペンタックスK-xを借りて使ったことがあるのですが、RAWで撮って現像する限り、フォビオンと比較した時に圧倒的に劣るということはないと感じました。




どのカメラでもレンズでも一緒だと思うんですが、適当に撮ったらそこそこのものしか出てこないし、ちゃんと手間ひまかけて考えて撮れば、いいものが撮れる、それだけだと思います。


じゃあ、なんでシグマ使ってんの?何でシグマの情報ばっか毎日探して、記事翻訳して、ノウハウを書いてって、別に誰に頼まれたわけでもないのにシグマのファンやってんの?

とまあ、そんな疑問が浮かぶわけです。もちろん対外的にはフォビオンの写りが良いからとか、シグマのカメラ哲学が好きだからとか、そういうことは言えるんですが、ぶっちゃけそこら辺も二次的な理由に過ぎません。

一番の理由は、2009年の5月に僕は無職でやることが何もなくて、昼夜逆転で家に引きこもって生きてるのか死んでるのかわからない状態だったのが、DP2を買ってから生活が一変して、毎日外に出かけて写真を撮って、flickrに写真をアップしたら評価されて、twitterつながりで知り合いがたくさんできて、生きる目標を何とか見つけたからです。

なので、シグマとDP2は命の恩人だと勝手に思ってます。僕がシグマ使ってるのはこれだけが理由で他には何もありません。シグマがカメラ作るのやめたらたぶん僕も写真やめると思います。それくらい個人的で主観的な理由です。



僕のスタートはたぶんここなんだろうなと、今でも思います。あの時買ったのがDP2じゃなくて、もっと使いやすくて簡単にそこそこ綺麗な写真が撮れるカメラだったら、たぶん僕はすぐに飽きてしまって結局引きこもったままだったんじゃないかと。

ホームランか三振しかないシグマのカメラだったから、僕はあれこれ工夫したりカメラや写真の勉強したりしなければいけなかったし、そこでホームランを出そうとする欲望が、そのまま自分が生きる理由ですらあったわけです。

で、DP2はそれに答えてくれたわけですよ。



今の僕は仕事も見つかって結婚もして子供もできてと、2009年の時とは全く違った生活をしていて、あの頃のような写真は撮る気はないし、ぶっちゃけ撮れません。平日の朝4時に家を出て日の出や朝露を撮るとか無理です。

写真を通じてしか、世間とつながりを保てないと当時は本気で感じていたと思うので、そんな意気込みでシャッターを切ってる人間の写真に力が宿らないわけがないです。写真始めて1年も経ってない素人だったのに(自分としては過大な)評価を得てこれたのは、単純に切実で真剣だったからだと思います。


逆に言うと、そんな感じでスタートした僕の写真が、生活が普通になるにつれて撮る必然性をなくしていったのも、また避けられないことだったのでしょう。

だからまあ、写真なんかやめてしまえばいいんですが、今やめてしまうのも何だかなあという、ちょっとした引っ掛かりを感じているわけです。何かを感じてなかったらこんな文章書いてないわけで、それが何なのか、今の時点でははっきりしない。

それは何なんだろう?というのを、次に考えてみようと思います。