写真が上手くなりたいんだがどうしたもんか(第三回)

前回のまとめ

世間的には「簡単に良い写真を撮る方法」みたいなのが出回ってるけど、それって本当に「良い写真」なのかな?

人は見慣れたものより、あんまり見慣れてないもののほうが新鮮だから、写真も「既視感」がないものの方がより強い感動を生むんじゃないか?

でも今はメディアに囲まれてるから、見たことのない写真を撮るのってたぶんすごく難しい。

僕がシグマを使ってるのはとっても個人的な理由なので、たぶんどのカメラやレンズを使っても良い写真は撮れる。

僕の原点は写真を通じて人とつながることだと思う、たぶん。

とりあえずけっこう目的は達成したっぽいので、別に写真やめてもいいかなと思わなくもない。

という話でした。


さて、その前回の記事に写真歴40年のプロの写真家の方からコメントを頂きました。

そこに一つなるほどと思うコメントがあったので、ちょっとそれについて考えてみます。


「商売じゃなかったら『写真がうまくなる』必要はないんじゃないですか?」


うん、そうだと思います。

僕はただの素人だし、本業もあるし、そっちに全力を傾けて、家族を大事にして、写真は適当にやってればいいんじゃないか?そう思わなくはないです。

たぶんプロの人はすごく大変だと思います。「写真だけで食ってく」なんて今の自分じゃ全く想像もできません。すごく大変なので、趣味で留めておいたほうがいいという、真摯なアドバイスだと受け取りました。

そういえば土門拳も同じようなことを書いていました。プロを目指してはいけない。アマチュアはアマチュア写真家の誇りを持って写真を撮り続けなさいと。



それはそれで何となくわかるんですよ。別に上達する必要なんか何もないです。

でもそれは何となく嫌というか、少なくとも自分の性格には合わない。仕事でも趣味でもどちらでも、とりあえず自分の限界が見えるところまでは行きたい。続けるかやめるかは、やるだけやって自分の限界が見えてからにしたいです。


何も見えてないのにやめるのは、それをやった事にはならないと思ってます。

何でか。それが、社会で生きるってことだからじゃないのかと。そうやって沢山の人が明日を今よりも良い日にしようとちょっとずつ、ちょっとずつ努力してきて、今の世の中があるんじゃないのか。

だから、僕も社会に生きる人間として、責任を持った市民として、精神的に停滞したくないんですよ。趣味だからといって目の前にある可能性をやり過ごすのは、自分の中では人間としての死を意味する、そう思ってます。

まあ大げさな話ですけどね。もちろん、毎日を生きてる僕は必死になって被写体を求めて歩きまわったり、革新的な表現手法や何やらを常に探し続けてるわけじゃないですよ。そんなの疲れるじゃないですか。

でも「ちょっとずつでもいいから昨日の自分より成長してるといいな」と思って、毎日生きてます。仕事でも趣味でも昨日よりも良くなることを目指してます。僕以外にもそういう人がたくさんいるから、世の中が平和で上手く回っているんだと、そう思ってます。



僕は撮りたいものがある人間じゃないし、表現したいものがある人間でもないです。

僕が撮った写真を見た人が、その写真に何かを感じて、少しでも震えを起こすことが出来ればそれだけで十分です。

その震えが何かポジティブな影響を与えて、世の中の良い方向にちょっとでも貢献出来れば、それだけで満足です。

そこから僕もまたフィードバックをもらい、エネルギーをもらい、明日を生きる希望になるんだと思ってます。


例えば僕が撮った写真の中で、一番twitterリツイートされた写真はこの写真なんですが



この写真は震災の二日後に生まれた娘を撮った写真です。震災の直後だったせいか、この写真は数千回だかリツイートされて、祝福の言葉がタイムラインに数日間流れ続けました。

純粋に写真として見た場合、この写真にどれほどの力があるのか、実はあまり良くわかりません。左側がちょっと空いてるので、トリミングした方がより効果が高かったかもしれないし、ひょっとしたらもっと暗めに現像したほうが雰囲気は出たのかもしれない。

でも、トリミングはしないで、露出も普通に仕上げました。娘の一番最初の写真なので、何もいじりたくないなと思ったからです。


この写真が震災の直後に撮られてなかったら、たぶん数千回もリツイートされることはなかっただろうと思います。

でも、そういう状況があったことを含めても、あの時、日本中の人たちが酷い絶望に苦しんでいる時、僕がこの写真を提示することで少しでも明るい話題を提供できたことは、僕にとって誇りではあるし、写真をやってきて、これを撮れるだけの技術を身につけておいて、良かったなと正直に思いました。

SD14と50mm F1.4という、明かりがあれば最高の写真が撮れる組み合わせを僕はこの時持っていたし、それを使いこなすだけの経験もありました。自分が携帯についてるカメラしか使ったことない人間だったら、たぶんリツイートされる回数も減っただろうし、結果として、多くの人に明るい話題を届けることはできなかったんじゃないかなと。



将来、震災直後に娘が生まれ、その写真を撮るという偶然に匹敵する状況に、僕がもう一度遭遇するかどうかはわかりません。たぶんこんなことはもうないだろうなとすら思ってます。

でもこういう写真をもう一度撮れるような、そういう心構えと、それに必要な準備はいつもしておきたい。僕が見つけた何か、僕が遭遇した何か、それを撮ることで、見た人に何か少しポジティブなものをもたらすような、そういう写真を撮って行きたい。

たぶん、僕が写真を上手くなりたいのは、こういう理由だからなんだと思います。