僕らは何を撮影すべきか、あるいはSIGMA DP1 Merrillとその広告について(その2)

ベイクオーブン発電所で1時間ほど撮影をしたあと、僕は高台を下ってインペリアルホテルの自室に戻った。僕は顔を洗い、歯を磨き、これから一緒に仕事をする、東京の代理店graphica 6+の福井信蔵氏と奥いずみ氏と面会した。それは朝の6時で、僕らは朝食をとりながら、軽いミーティングを行った。

埃っぽい未舗装の道路を走りぬけ、インペリアル・ストック・ランチの本部がある建物に到着したのは7時15分のことだった。納屋と家屋敷のすぐそばにフェンスがあり、それに沿って車を停めようとしていると、ブリキのバケツを左手に持ったジェニー・カーヴァーが納屋から出てきた。彼女の右隣にはケイティーという名前の白黒のボーダーコリーがぴったりとくっついていた。



ジェニーは美しい女性だ。その日の彼女は破れたブルージーンズと、白と青のストライプ模様のフランネルジャケットを着て、茶色のカウボーイブーツを履いていた。ブロンドの髪はピンで上の方にまとめられ、ほつれた髪が肩に降りかかっていた。

知性を感じさせる灰色の目をきらめかせながら、ジェニーは少しの不安と興奮の入り混じった表情で、僕らに挨拶をした。そして、自分たちが自己紹介を始めると、彼女はもう、てきぱきと作業の続きに取り掛かっていた。農場で生活をした人ならわかると思うが、農家の朝はやるべきことが星の数ほどある。日々の仕事。予想外の出来事。その日は、それらに加えて日本から来た代理店が、全世界に展開する広告のための撮影に来ているのだ。




都会を離れることは素晴らしい経験だ。大陸の奥深くに入り込み、現代の生活に必要なあらゆるものから距離を取る。そこでは不必要なものは消え去り、必要だと思っていたものが実は必要ではなかったことに気づく。そうやって離れることそれ自体に治療効果があるのだ。携帯電話は繋がらなくなり、インターネットやRSSフィードソーシャルメディア、そういったものが徐々に記憶の彼方へと消えていき、僕らはついに自分自身になる。

農場での滞在は、まさにそういう感じだった。僕らは農家の一員になっていた。普段の生活で気がかりだったことは全て、広大な農場の静寂と孤独に埋めつくされてしまった。農場の生活はまるで自分たちがここにいないかのように進む。僕ら部外者三人は、皆同じ体験をした。風化した古い建物、大地、風、太陽、空気、森、木々のざわめき、子羊の鳴き声、どこまでも続く地平線、朝の冷たい空気、夕刻の満月、人がいることの優しさ、本当の笑顔、手作りサイダーの熱気、新しい友だちとの談笑、そこにいるということの奇跡、言葉に表すことのできない、数え切れない体験。そのすべてが、僕らの心に突き刺さった。それはまるで、凍てつく冬の夜に暖炉のそばに集まって、かすかに残る暖かさを噛み締めるような、心に染みる体験だった。


どうして、そういう経験が大事なのか。


全ては、誠実であるために。


僕はシグマの山木和人氏とここ数年一緒に仕事をしてきた。その経験から、シグマが本当にやりたいことは何なのか、シグマがプロ用のカメラやレンズを作り続けるモチベーションはどこから来るのか、僕にもわかってきた。

今回の撮影でDP1 Merrillを使って、このカメラについていくつかのことがわかった。レンズの性能、画質、色彩、コントラスト、使い勝手。このカメラに秘密は何もない。けれども、そもそもの初めに、多くの人が忘れがちになるとても重要なことを、僕は認識していた。それは、このカメラについて深く知ろうと、最初から決めていたということだ。

創造力。シグマが僕に求めてきたことは、広告に使われる写真を通じて、世界中の人とコミュニケーションをとるということ。それが、僕のやるべきことだった。

世界中の人が持つ、何かを創り出したいという欲求。それを形にするのが、世界最高クラスのレンズと、通過してきた光をあますところなく捉えるセンサーだ。写真家たちはこのカメラを持って世界とつながろうとする。僕はその具体的な例を示すことで、このカメラの性格を決定づける役割を持つ。

僕たちは眼の前に広がる光景と関わろうとする。自分の内側から湧き出る、言葉に出来ない欲求を、写真という形にする。世界と誠実に向き合い、その本当の姿を捉えようとする。それが、僕らが駆使する、創造する力だ。

シグマのカメラは気軽に写真を撮りたい人には向かないと言われている。もしくは、使うのが少し難しいとも。馬鹿馬鹿しい。

もしそこに難しいものがあるとしたらそれは、やましい心を持たずに世界と向き合うことの難しさと、苦痛だと思う。このカメラは全てを写す。だから、写るのは被写体だけじゃない、それを撮影している僕の心まで写し撮られてしまう。

僕がこれまでやってきたこと、あるいは今回やろうとしたことはそういうことだ。深く、深く写すということ。それが、シグマという会社が本当にやろうとしていること。フォビオンセンサーを使って全てを写し撮ろうとすることほど、難しいことはない。結局僕らの写真というものは、自分が今まで体験してきたことと向き合うということだから。それを全て写しとる。それが簡単な作業であるはずがない。

なぜ僕はジェニー・カーヴァーとインペリアル・ストック・ランチの人々を選んだのか。なぜ僕は、映画会社が用意した撮影場所を見て寒気を感じたのか。

僕が没頭できる対象、「愛情」という言葉で表される何か、それがあそこにはあったからだ。


何を写すべきなのか。それは結局、いつも同じことなんだ。