フォビオン・ストーリーズ(3) 1967年 マックス・デルブリュック

カーバー・ミードがフォビオンセンサーの開発に至る道のりを歩み始めたのは、1967年にマックス・デルブリュックがミードの研究室を訪れた時に遡る。

マックス・デルブリュックは1906年にドイツで生まれた。ノーベル物理学賞を受賞したマックス・ボルンの元で物理学の博士号を得た。後に物理学から量子力学に研究領域を移し、ニールス・ボーアとともにコペンハーゲンで研究を始めた。そこでデルブリュックは物理学から生物学へと関心を広げ、アメリカのカリフォルニア工科大学Caltech)に移った後、1969年にノーベル生理学賞を受賞する。


1967年のある春の日、デルブリュックはつい最近発表されたとある論文について、カーバー・ミードの意見を求めてきた。それは脳の神経回路におけるイオン伝達とトランジスタの類似性について述べたものだった。

当時31歳のミードはCaltechの電気工学の教授であり、トランジスタ工学におけるエキスパートとして、既にその世界における第一人者であった。

「この論文の著者は神経細胞膜がトランジスタのように機能してると言ってるんだけど、本当なのかな?」とデルブリュックはミードに尋ねた。

人間の神経回路は細胞膜を通じて電気信号を伝達する。この機能は一見するとトランジスタの回路に似ている。トランジスタは1947年にベル研究所で発明された、スイッチや増幅回路として使われている機械だ。神経回路もトランジスタも電気信号を急激に増加させる機能があり、論文の著者はこの2つが同じ構造を持つと考えていた。

「わからないよ、まずは論文を読まないと」とミードは答えた。その時のミードは、突然自分の研究室にやってきたこの人物が誰なのか、そして畑違いの生物学の論文が自分にとってどのような意味を持つのか、全くわかっていなかった。

「そうだな」とデルブリュックは言った。「ほら、これだよ」と言って、論文のコピーをミードの前に置いた。

「あとで読むよ」とミードは答えた。



ミードはその次の週にデルブリュックの置いていった論文を読み始めた。すぐにテーマに夢中になったが、電気回路と神経回路を比較する計算式は全く説得力がないと感じた。ミードはデルブリュックに電話をした。

「面白いけど彼らの理論は穴だらけだよ」とミードは言った。

「それならば」とデルブリュックは答えた。「私たちが真実を見つけるしかないな」

そうやって、二人の共同研究は始まった。



1971年、ミードは神経回路の信号伝達機能をなぞった特殊な電気回路を設計した。細胞膜が信号を伝えることができるのは、特別な分子が媒介として機能していることをデルブリュックは発見していた。そこからヒントを得たミードは、細胞膜間の信号の伝達は電圧の上昇によるものではなく、伝達される信号の量によってなされることを発見したのである。

デルブリュックとミードは、彼らが変換生理学と呼ぶ領域の研究を進めた。変換生理学とは、外界からの物理的な信号が感覚器官を通じて電気信号へと変換され、それが脳で認識されるという、一連のプロセスを研究する領域である。

私たちが生きている世界は、網膜を通じて電磁波を変換して、脳で認識している世界とは根本的に異なっている。視覚は情報を受け取る器官ではない。視覚は映像を創りだす知性そのものなのである。


外界からの刺激を映像に変換するこのプロセスについて、生物学はほとんど何も理解していない。網膜と大脳皮質が神経によってつながれていることと、脳の領域の実に半分が視覚に割り当てられているらしいということしかわかっていないのだ。

ミードは脳というのはアナログ回路の集合体なのではないか、という予測をしていた。神経回路が複雑に絡み合い、それぞれの領域が化学反応を通じて同期し、大量のデータが同時に行き来しあう、巨大な情報処理器官だと考えた。

初期の半導体は脳の神経細胞に匹敵するだけの高密度の回路を作ることはできなかった。しかし、1980年代に入ると、アナログVLSIをセンサーとして利用することで、網膜や内耳と同じ機能を持つ単純な回路を作ることに成功した。

これらの回路は脳とは比較にならないほど単純なものだったが、半導体を使った人間の感覚の再現という、新たな地平を開くものだった。デルブリュックとミードの研究に刺激され、新しい産業が次々に生まれることになったのである。

その中の一つに、後のデジタルカメラで使われることになる撮像素子の発明があった。この発見は世界のあり方そのものを変えるインパクトがあった。世界中を有線・無線のネットワークが覆い、デバイスがある場所からならどこでも他の人とつながることができる。それはつまり、世界中のどこでも、そこから見える光景を、ネットワークを通じてだれでも見れることを意味するのだ。


デジタルカメラはレンズを通して得られたアナログな画像をデジタル信号に変換する装置である。市場に出回っているデジタルカメラのほとんどは、実際の光を赤緑青の各色にふるい分け、各ピクセルで一つの色を記録している。その後、各色の色の強さを計算し、隣合うピクセルからそれぞれのピクセルの色を演算することで画像を再現している。

カーバー・ミードはこの方式のデジタルカメラを「色を測定しているのではなく、演算しているに過ぎない」と考えていた。それゆえ、一つのピクセルで完全に色を測定できるカメラにこだわり続けた。この発想が、のちのフォビオン社の設立につながっていくのである。


フォビオンが実現するはるか以前、Caltechでミードを中心とする研究チームは、シリコンを使った網膜を作る研究を続けていた。彼らの目的は高性能な撮像素子を作ることではなかった。シリコンで、網膜そのものを再現することだったのだ。ミードは20年という長い期間に渡って、シリコンの物理的特性を研究し続けた。

フォビオンは、従来の撮像素子の弱点を克服する、高性能なセンサーとして作られたのではない。人間の視覚を研究し、それをシリコンで再現することで、人間とコンピュータの限界を突破しようとする、挑戦だったのである。


コンピュータはその登場以来、性能を飛躍的に向上させてきた。今では天気予想を瞬時に計算したり、国会図書館のすべての蔵書をデータベース化し、検索することが可能である。

しかし、コンピュータそれ自体は「見る」ことはできない。今日でさえ、空港ロビーの人ごみの中から、特定の人物を見つけるのは、コンピュータよりも人間が行ったほうが正確である。それゆえ人間の知性をシリコンで再現するには、まず脳と網膜の研究からはじめなければならない。そして、その領域はまだ研究が始まったばかりである。


フォビオンはその人工知能の「眼」として開発された、唯一の撮像素子である。そして、人間の網膜と神経回路の研究が、やがて世界を震撼させる画期的な撮像素子として結実した。

その全ては1967年の、カーバー・ミードとマックス・デルブリュックとの出会いから、始まったのである。