フォビオン・ストーリーズ(2) 2003年10月 カリフォルニア・デスバレー
その時、カーバー・ミードはカリフォルニアのデスバレーにある砂漠の真ん中で、携帯電話の電波を受信しようとしていた。
ガソリンスタンドから漏れる光が、ミードの乗用車の後部座席を照らしていた。そこには、ホコリにまみれた古い機械や電気設備が満載されていた。助手席に座っているのはミードのパートナーのバーバラ。ミードは休暇を取り、バーバラと一緒にカリフォルニアの北部を回る旅から帰る途中だった。
カーバー・ミード。世間的には全く無名の人物だが、シリコンバレーでは生きる伝説であり、40年以上に渡り電気工学の世界をリードし続けている。環境の変化が激しい電気工学の世界で彼が常にトップを走り続けていられるのは、ミードが歴史の変化を見極める能力に長けているだけではなく、技術そのものを深く見つめることが出来たからである。
ミードは、物理法則それ自体が持つ真理に、常に寄り添うことを考える科学者だった。
ミードはカリフォルニアの水力発電所でエンジニアをしていた父の息子として生まれた。ミードは父に習い、巨大な電力をどうやって遠隔地まで損失なく運ぶかということを学び始めた。送電網が一定の周波数で同期していたら電力を百キロ以上離れた場所に運ぶことができるが、もし位相がずれたらたちまち大事故になってしまう。
ミードはカリフォルニア工科大学(Caltech)進学後に、ゴードン・ムーアの元で科学と工学を学んだ。そこで彼は、父の関わっていた数百万ワットの電力の世界から、その数億分の一であるナノワットの世界へと自らの進路を変える。
1963年、ミードが29歳の時に、彼は当時世界最速のトランジスタを発明した。また、ミードは半導体技術が発展する速度を調べ、18ヶ月ごとにその性能が倍になることを発見し、トランジスタの発明者であるゴードン・ムーアの名を取り「ムーアの法則」と名付けた。
ミードはCaltechで教鞭をとり始めると同時に、シリコンバレーに通い、同僚や教え子たちが興した会社へアドバイスを行うようにもなった。ミードはいつも黙って話を聞き、よく考え、それから誰にでもわかる言葉で話を始めた。ミードのアイデアが共有されるとそこから新たなアイデアが沸き始める。そうやってミードがきっかけとなって作られた会社の数は20以上にも上った。
ミードの関わった会社のうちで最も有名なものの一つが撮像素子会社のフォビオンである。
撮像素子とはレンズから入った光を電気信号に変える装置である。21世紀初頭まではほとんど全てのカメラはアナログで、光を捉えるのにフィルムが使われていた。しかし、デジタルの時代になると、フィルムで撮影された画像はデータとしては扱いづらかった。色彩と輝度がデータとして扱えるようになって初めて、データをネットワーク上で交換したり、プリントしたりすることが可能になるのである。
ミードがデスバレーに出かける一ヶ月前の2003年9月、デジタル撮像素子の出荷台数が歴史上初めてフィルムの販売数を追い抜いた。2003年に売れたデジタルカメラの数は3500万台、カメラ付き携帯電話の数は1000万台を突破した。もはや、時代は完全にデジタルへ進む流れにあった。
ミードがフォビオンを設立したのはそれよりはるか昔の1996年である。ミードはフォビオンの素子こそが世界で最高の撮像素子だと信じていたが、それにもかかわらず、設立から7年経った2003年の時点でも、フォビオンの素子は全く広まっていなかった。20003年に出荷された撮像素子の数は5000万。その中で、フォビオンのシェアは0.1%にも満たなかった。
2003年10月、フォビオン社は大きな危機を迎えていた。
会社をリードすべきCEOは会計部門から一時的に任命された人物で、彼は元の会計の仕事に戻りたがっていた。主任科学者のリチャード・ライアンはフォビオンを使っているシグマのカメラを買ったユーザーからの、クレーム対応に追われていた。役員の中で最も著名なのはインテルで世界初のマイクロプロセッサーを開発したフェデリコ・ファジンだが、彼はちょうど妻と中国旅行に行っていて留守だった。
フォビオン社はシリコンバレーで最も有名な調査会社に依頼して、新しいCEOを探し続けていたが、作業は難航していた。調査会社が示したリストにはインテルやマイクロンといった著名な半導体企業の出身者が並んでいたが、フォビオンに出資しているベンチャーキャピタリスト達は会社の将来をめぐって激しく口論し、いつまで経っても新CEOを決められないでいた。
ミードはフォビオンから去るつもりだった。
彼はフォビオン社と連絡を絶って、バーバラと二人でカリフォルニア北部を回る旅に出た。アパラチア山脈の奥深くに、ミードの父が生涯をかけた電力網の痕跡があるはずだった。ミードはアメリカの電力網の発展についての本を書こうとしていたのである。
最初の10日間、ミードとバーバラは何も見つけることができなかった。しかし、11日目に、1909年に北カリフォルニアに出来た最初の電力網の痕跡を発見したのである。
「この電力網について知ってる人は誰も居ないんだ。だから、設備を見つけた時は本当に興奮したよ」とミードは話した。
発見した古い設備を車に詰め込んで、ミードとバーバラは自宅への帰路についた。そして、途中のデスバレーで休憩をしていた時、二週間ぶりに携帯電話のメッセージを確認しようと思い立った。その中の一つに聞きなれない女性からのメッセージがあった。
「彼女はフィル何とかがどうしたと言っていたんだけど、それが人なのか何なのかすらわからなかったんだよ」とミードは言った。
後にそれは通産省の次官であるフィル・ボンドのことだと判明する。
ミードが女性に電話をかけ直すと「誰も何も話してないのですか?」と彼女は言った。
「何のことかわからないよ」とミードは言った。
「プレゼンテーションの撮影をしなければいけないのですが」
「何のプレゼン?」
一ヶ月後の2003年11月、ホワイトハウスのイーストルームでアメリカ国家技術賞の授賞式が執り行われた。ブッシュ大統領は受賞者が行うプレゼンをあくびを噛み殺しながら眺めていた。彼はアメリカの雇用問題と製造業に興味はあったが、科学技術にはさほど興味が無さそうだった。
しかし、ブッシュ大統領は、ミードが興した会社のうちで最も著名であるフォビオン社が、まさに消滅の危機に貧していることを知らなかった。フォビオンの成功如何によって、長い間日本のソニーやフジやキヤノンに奪われている撮像素子の主導権をアメリカが再び手にできるかどうかが決まる。しかし、ミードがその情熱と創造力をすべて注ぎ込んだフォビオンセンサーは、市場に全く浸透していなかった。
しかし、そのアメリカ発の革新的なセンサーを採用する企業は、アメリカにも、ましてや日本にもなかった。ミードはコダックやモトローラといったアメリカ企業だけでなく、キヤノンやニコンにもフォビオンセンサーを売り込んだが、どこも門前払いだった。
参考文献 George Gilder "The Silicon Eye," 2005 W. W. Norton & Company