シグマ ― 最高の画像を手に入れるために(その1)

元記事:SIGMA - ONE MAN’S QUEST TO ATTAIN THE PERFECT IMAGE


シグマとはどんな会社か


かつて日本には光学産業のブームが起こっていた。その最中の1961年、山木道広はレンズメーカーを設立した。当時彼は27歳だった。

わずか数年の光学メーカーでの勤務経験を頼りに、彼は財産を投げ打ってリアコンバーターを設計・製造する会社に全てを賭けた。シグマが誕生した瞬間だった。

先進的な設計思想、高い光学設計の能力、そして強固な決断力を背景に、山木道広は後に写真産業の中でも最も賞賛されることとなる彼のキャリアをスタートさせた。



それから52年の時が経った。シグマは現在7カ国に支社を置き、全ての大陸に配送センターを持つ、世界最大の交換レンズ製造会社となった。シグマは全世界で2000人以上の従業員を抱えているが、会社そのものは山木家による同族経営のままである。2012年の山木道広の死去はカメラ産業全体にとっても大きな衝撃だったが、彼の資産は息子の和人に受け継がれている。

山木道広は生前、和人と協力してシグマという会社そのものを変化させる計画を練っていた。シグマはかつて安価な交換レンズメーカーとして有名だった。しかし、カメラの性能は向上を続け、要求されるレンズ性能も上がり続けている。シグマは限られた予算と経験の中で、最高の性能のカメラとレンズを作るメーカーへと変貌を遂げようとしていた。

この一年に発売された数々の革新的で高品質な製品を見ると、山木和人はシグマのユーザーに世界最高の製品を提供するという、シグマの伝統をしっかりと受け継いでいるようである。


2.5倍リアコンバーターレンズ

カメラ産業の歴史の中で最も革新的な発明の一つと考えられている。リアコンバーターレンズは写真愛好家の必需品として、そのバッグの中に常備されており、全世界で数百万個も売れた。




シグマという会社


シグマは1961年に設立された。当時の東京には何十もの大きな光学機器メーカーがあり、その中にはニコンキヤノン、旭光学などもあった。シグマはそれらのメーカーの近くにオフィスを構えたが、当時の東京では熟練の技術者は既に他のメーカーに雇われていた。道広は東京の外で技術者を探そうと決めた。

そんな中、とある技術者が彼の生まれ故郷である会津の人々のことを道広に話した。会津の人たちは粘り強さと細かな作業に秀でていることで有名だという。さっそく会津に視察に向かったが、それは実りの多いものだった。技術者の語った会津の人たちの特質はその通りで、地元の人達も、地域に工場を作るよう道広を説得した。地酒が盛大に振る舞われる中で行われた交渉だったので、道広は詳細をわからなかったが、ともかく道広は工場を作ることに同意した。次の朝起きてみると、前の晩の交渉はただの冗談ではなかったことに気づいたので、道広は自分の言葉に責任を持たなければならなかった。地域のある家の部屋を間借りして、作業員を一人雇い、旋盤を購入して部屋に設置した。シグマの会津工場の始まりは、この小さな部屋からだった。




会津の人たちが精密な作業に向いていることに、道広が気づくのに時間はさほどかからなかった。1973年にシグマは会津に正式に工場を建設することを決断する。現在では会津工場は最新のハイテク工場として知られている。その大きさは4500平方メートルを超え、中央に情報管理システムと、垂直統合された生産ラインを持ち、それにより複数の生産ラインを同時に効率的に動かすことが可能になっている。シグマの製品は全て日本の会津工場で生産されており、わずかな部品以外は、全て自社で設計・製造を行っている。作業効率が高いので現場でも意思決定ができる。また、情報を共有することで、革新的な設計が可能になり、生産効率や生産量、さらに品質が向上している。

レンズの品質管理はA1と呼ばれるシグマ独自の検査装置によって行われている。このシステムはシグマのフォビオンセンサーを使うことで、これまでの装置では検出不可能だった高周波の画像を検査できる。グローバルビジョンのレンズは全て、このA1による厳格な検査を通過しているので、設計上の理論値に近い性能を実際の製品でも発揮できている。



シグマの創立者


山木道広は1934年に生まれた。彼は決して裕福な家の生まれではなかった。1956年に大学を卒業する前からすでに、家族を支えるために複数の光学メーカーで働いていた。彼は大学を卒業するとすぐに、とある光学メーカーで働き始めたが、それまでの勤務経験もあって、すぐに会社内で頭角を現した。しかし数年後にその会社は倒産してしまい、道広はかつての取引先へのコンサルタントとして働き始めた。設計に関する斬新なアイデアをいくつか取引先に紹介すると、彼らは道広に会社を設立して製品化するよう頼むようになった。結果としてそれが1961年にシグマ研究所の設立につながった。




シグマは設立当初から、それまでのカメラ産業の製品にはなかった、新しい製品を市場に投入していった。その中の一つ、世界初のリアコンバーターレンズによって、シグマは世界から注目を浴びる企業となった。そのシグマの発明によって、カメラ業界全体が変わってしまったのだ。

道広はそれまでの蓄えの全てを、リアコンバーターレンズの開発に賭けた。これは元々、彼が別の光学メーカーで勤務していた時に思いついたものだった。それまではテレコンバーターレンズはレンズの前面に取り付けるものしかなかった。写真家はレンズの前玉のサイズに応じて、複数のコンバーターレンズを持ち歩かなければならなかった。しかし、リアコンバーターレンズはレンズとカメラボディの間に装着するので、どのサイズのレンズにも取り付けることができる。リアコンバーターレンズは当時よりも遥かに高性能になっているが、今でも世界中の写真家によって愛用されている。




山木道広がカメラ産業に残した功績はこれだけではない。リアコンバーターのあと、彼はYSヤマキシステムという名のシステムを考案した。これは一つのレンズを複数のマウントのボディで使うことができるシステムだった。彼はさらに、世界初のマクロズームレンズ、インナーフォーカスの望遠レンズ、連続フォーカスのマクロズームレンズなどを次々と発売していった。

山木道広は写真産業の先駆者であり、優れたビジネスマンだった。彼の写真に対する生涯に渡る貢献は多くの人に認められてきた。彼は亡くなるまでに世界中で様々な賞を受賞してきた。1994PMA殿堂入り、1998年国連IPCリーダーシップ賞、2008年国連IPC殿堂入り、2011年ゴールデンフォトキナピン受賞などである。また2013年にはPMDAが功労賞を追叙した。授賞式で道広の代わりに賞を受け取った山木和人は次のようにコメントした。

「父の写真への情熱を間近で見ることができたのは、私にとっても幸運なことでした。毎日のように彼の努力とその成果に刺激を受けてきました。父はこの賞を受けることができてとても喜んでいることと思います。シグマのカメラ、レンズ、アクセサリーを作り続けることで、写真の世界を広げていくという父の目標を、私も追い続けたいと思います」