写真がもっと上手くなりたいリターンズ(第四回)【書評】森村泰昌「美術の解剖学講義」

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スポーツを例にするとわかりやすいんですが、誰でも最初は練習と勉強から始めます。


練習というのは、素振りとかリフティングとか体を使う訓練、勉強というのはルールや体の使い方、戦術や戦略のようなものをちゃんとわかることです。

こういうことをちゃんとやっていないと、当然ですけどプレーなんかできません。

僕は美大とか専門学校とかに行ったことはないので、そこでどんな教育やってるか知らないんですけど、大阪芸大通信教育部の写真学科のカリキュラム見ると、やっぱり写真史とか写真科学とか映像論とかをまずやってます。技術的なことと、知識的なことをまずやって、そっから表現に入るわけですね。

これ見て、まあ当然そうだよなあと僕は思ったわけです。というのも、例えば素振りもしない・キャッチボールもできない・ルールもわからない状態で野球なんかできっこないからです。

写真もたぶん同じで、良い写真を撮るためのルールがあるし、それを出来るようになるためのトレーニングも必要なわけです。なので僕も一応本屋で売ってるテクニック本とか読んでるし、カメラの構造的な内容はかなりの程度理解してるし、自分の体でそういうのを踏まえた写真を撮れるようになるという練習も多少はしています。




が、もちっと画面そのものの構成、写真の構造に踏み込んだ知識なり技能なりを身に付けていかんとなあとずっと思ってまして。というのも、テクニック本というのは「こういう風に撮るといいのが撮れる」という具体例の羅列で、その背景にある人間の美意識なり、体系的な美学的知識なりが全然説明されてないんですね。


で、今回読んだ森村泰昌の本が面白かったので、その紹介です。


基本的にこの本は美術の本なので、写真だけに興味があって美術に全く興味のない人は読むところは少ないです。が、気の利いた人ならいい写真を撮るのに美術の知識はあっても無駄にならないとわかっていると思いますので全部楽しめると思います。


個人的に一番「すげー!」と思ったのが、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「アルベルト・ジャコメッティ」という写真の解説です。

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いやあ、すごいです。

が、どうしてこの写真がすごいのか、ポイントが五つくらいあります。

1.主題への意識の持って行き方が見事

この写真の主題は何と言っても画面真ん中にいる雨に打たれた男の人です。この人に視線が自然と行き着くよう、画面中央から右下に斜め方向に走る白い円が続いています。さらにその斜めの線は画面真ん中にある木と、男の後ろ側にある歩道の線によって、見事に長方形の対角線として機能してます。カッコイイです。

2.繰り返される縦のイメージ

画面中央の木が写真全体に縦のイメージを作っているんですけど、それが右奥にある木、右後ろの建物の窓枠、左側で繰り返される窓枠という感じで、画面の中で何回も何回も繰り返されていきます。そのことで画面全体にリズムが生まれています。

3.上向きの矢印

雨がかからないようにと、コートを頭にかけた男の姿は、上向きの矢印のように見えます。それと同じ上向きの矢印が、画面左奥にある三角形の道路標識で繰り返されています。これがすごいアクセントになっています。

4.道路標識の母と子。道路を一人で歩く初老の男

で、その道路標識もよく見ると母親と子供の姿が描かれているように見えるのに、画面真ん中の男は一人で歩いてます。その立場や家族を推測させる、非常に意味深いモチーフに見えます。

そもそも、この被写体のモデルはジャコメッティです。ジャコメッティって誰ですか?と僕は最初知らなかったんですけど、ググってビビりました。こんな彫刻を作ってる有名な作家です。


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ジャコメッティ 「歩く男」


線が歩いてる!!!


ジャコメッティの彫刻で一番有名なのは、この歩いている男です。ここまでわかった上で、もう一回写真を見てみます。恐ろしい。なんなんだ、この写真は。すごすぎる。ジャコメッティを撮るならこの写真しかありえないというくらいまで完璧に計算され、表現された写真だと思います。


ああそうか、撮るということはこういうことなんだ。写真はここまで出来るんだ。ここまで行けるんだ。すごいじゃないか。この写真に比べたら、僕の撮ってきた写真のシャッターのいかに軽いことか。恥ずかしくなります。


僕はこういう風に写真を見るという訓練を全然経てきていません。だから、写真を撮るときもただ漠然とシャッターを切っている。でもそれじゃあダメなんだとわかります。もっと人を見て、画面を見て、何を入れるのか、何を入れないのか、考えれるはずだと。

もちろんシャッターチャンスは一瞬です。考えてたらシャッターは切れない。それでも、画面を見る目、状況を判断する眼を養っていけば、意識ではなく体が「意味のある構図」を選べるようになるんじゃないか、という気がしています。



本物の写真には、画面にあるもの全てに、意味がある。「美術の解剖学講義」を読んで、そう思いました。



僕はもっと写真を見よう、と決意しました。