写真がもっと上手くなりたいリターンズ(第三回)【書評】ホンマタカシ「たのしい写真3ワークショップ篇」

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写真は芸術ではないという話をチラホラ耳にするんですが


何が芸術かとかって、僕みたいな一般人には実のところどうでもいい話で、面白いものは面白いしつまらないものはつまらない。自分の感性を基本的には基準にしているので、別に世間の評価とかそんなのはどうでも良かったりします。

が、世の中というのはなかなかそうはいかないもので、世間から「アーティスト」とか「芸術家」とかみなされると、それはそれで色々メリットがあったりするんだろうな、という気がします。

「写真が芸術ではない」という人の根拠の中に、例えば東京芸大多摩美武蔵美に「写真学科」がないじゃないか、ってのをどっかで誰かが言ってるのを見たことがあるんですが。まあ、そんなのは権威主義だし、日大にだって大阪芸大にだって東京工芸大にだってあるじゃないか、という意見も言えるわけなんですけど。

でも、素人考えで、東京芸大に写真学科があったら、それはそれで今の日本の写真のあり方も何となく違うんじゃないかなあと思わなくもないです。そういう芸大の教授って、政府とかとコネができたりして、業界での発言権が増したりしそうだし、一般市民からの反応も違うわけで。

高名な写真家が芸大の教授でキャリアを終えるって、それはそれで悪くない話だと思うし。高校生が「大学行かずに写真の専門学校行きます」とか言い出したら親教師は心配しそうだけど、「東京芸大に行きます」とか言い出したら応援してくれそうじゃないですか。

あと、やっぱ大学って教育機関としてはそれなりに有効で、「学士」を与えるために歴史だったり技術だったりの、基本から応用までをある程度系統だったカリキュラムで教えられるってのはメリット大きいと思うわけです。


そういうレベルでの変化が世の中で起こると、今写真撮ってる人達の世間からのリアクションとかも変わりそうだし、一部の人は生活が楽になるかもしれないし、いろんな表現がもっと花開くかもしれないし、まあ悪い話じゃないよな、と思うわけです。


まあでも、やっぱり僕みたいな一般市民にはあんま関係ない話ですけどね。


ホンマタカシの「たのしい写真」を読んで一番最初に感じたのが、「ああ、ホンマさんは写真を『芸術表現だ』って言いたいんだろうな」ってことでした。

こんな歴史があるよ、こんな奥深いよ、こんないろんな表現があるよ、ついでに現代の芸術の流れ(ポストモダン)にも乗り遅れていないよ。写真はすごいよ。

ってことがたくさん書いてあるような気がして、優しい語り口の裏側にある、他の芸術分野からの抑圧に対するルサンチマンが旺盛に述べられているのかなあと下衆の勘繰りをしてしまい、僕はちょっと気後れしてしまったのです。

実は似たようなことは写真雑誌IMAを読んでも感じるんですけど、あの雑誌は最新の表現を取り扱ってくれたり、歴史的な位置づけをちゃんと示してくれたり、読んでて楽しいんですが、ところどころ「写真はアートなんだから芸術作品を買うようにプリントを買え!たった10万円なんだから他のアートよりも安いだろ!」って言ってるような気がして、ちょっとこっちも気後れする時がたまにあります。


日本の写真について語る言葉の少なさってのは、何に由来するのかなということを、ずっと昔から考えていたんですけど、前回紹介した「日本写真史」を読んで、何となく理由が見えてきた気がします。

日本の写真文化って、結局カメラ雑誌の文化なんですね。カメラ雑誌が写真のあり方のようなものを主導していて、多くのアマチュアカメラマンがそれに無批判に乗っかっているという、そういう構造がある。

カメラ雑誌のスポンサーはカメラメーカです。カメラメーカーは基本的に新製品を売るために雑誌に協力してるわけですから、カメラ雑誌の表現はメーカーのテクノロジーが主体なんですよ。これすごく変な話しで、被写体でも写真家の個性でも表現欲でもなく、メーカーのテクノロジーが日本のカメラ文化の主流にあるんじゃないかなあと。

毎月毎月カメラ雑誌は「今の時期はこれこれこういう写真を撮りに行くべき。機材は最新のこれを使うと簡単にきれいな写真が撮れるよ」って話をひたすら繰り返してます。アホかと思うくらいに。よくよく考えるとこれおかしな話で、そういうのばっかり読んでると、僕らはいったい何のために写真撮ってるのかわからなくなります。



少し前までは多くの人に写真を見てもらうためには紙に印刷しなければなりませんでした。自分で出版することも出来ましたが、より多くの人に届けるにはどうしても部数の多い媒体に掲載してもらわなくてはなりませんでした。

(中略)

ところがインターネットの普及により誰もが、何の制約もなしに、どんな写真でも思いのままに世界中に向けて発表できるようになったのです。

その結果、写真は驚くほど身近な存在となり、同時に写真に対する理解もどんどん深まっていきました ― という具合になったわけでは残念ながらありません。

せっかくカメラの煩雑な操作から開放されたというのに、依然として多くの人が気にするのはピントが合っているか、ブレていないか、明るさは合っているかなどのカメラの技術面であり、画素数をはじめとするスペックの話ばかりです。

ホンマタカシ「たのしい写真3」 p.6


ホンマタカシもこう書いてるので、やっぱり日本の写真文化の大きな流れはメーカー主導で、テクノロジーの話ばっかりなんだろうなあと。それに無自覚でいると、僕らの写真はどんどん画一的になって、つまらないものになり、次々に発売される新製品に翻弄され、それに資金を注ぎ込み、でも撮る写真は相変わらずの定番写真で、心身ともにどんどん消耗していく。気づいたら写真への情熱はなくなっていた。そんなアマチュアカメラマンがたくさんいそうな気がします。

「たのしい写真」やIMAを読むと、とりあえずそういう呪縛からは逃れられる。「あ、表現していいんだ」「あ、好き勝手に撮っていいんだ」と思えるようになる。

んでも、そっから先にどう進めばいいのか、それがあんまりわからない。で。その先どうすればいいのかを示したのが、今回の「ワークショップ篇」だと思います。

今回のは「たのしい写真 よい子のための写真教室」の続きなので、こっちを読んでない人はとりあえず読んだほうがいいです。で、そこで示した写真の大きな三つの流れ、決定的瞬間、ニューカラー、ポストモダンを実際にやってみようというワークショップの様子と、そこで作られた作品が出ています。

ちなみに僕もニューカラーはちょっと試しててこんなの撮ってたりするんですが、まあ難しいっすな。


ちなみにこの写真、FlickrでFavゼロ、コメントゼロという、完全にスルーされてる写真です。

以前の僕なら、ノーリアクションの写真はダメな写真だったってことで、さっさと削除して次にはキャッチーな写真を撮りに行こうとしてたんですけど、でも今は「ニューカラー的な何かを掴みたい」という目標がある。だから、もう今までのように反応にこだわらなくなりました。表現を見つける途中の作品なんか評価されなくて当然ですから。でも、僕の中では「これが撮れた」というのは実はけっこう大きくて、というのも今までこんなの撮ったこともなかったからなんですけど、実際に撮って現像した後に「何か先が見えた」気がしたのも事実です。


写真はもっと先があるし、僕はもっと新しい写真が撮れるし、それを撮りたいなと何となく思えるようになった気がします。


今回の本のワークショップの様子の中ですごく面白い場面があって


受講生 自分では3枚とも好きな写真です。

ホンマ いや、ここでは個人の好き嫌いは聞いていないんです(笑)。 (中略) もう1回、自分の好き嫌いや思いを横に置いた上で、それでも写真が撮れるかどうか考えてみてください。

ホンマタカシ「たのしい写真3」 p.91



これ全くその通りだよなと、えらく感動しました。

結局、自分の好き嫌いを判断基準に置くと、表現が稚拙なままで深まっていかないし、独りよがりになって人にも届かないんだろうなと。

そういうことを無自覚なままでいる「自分の写真」と、そういうのを全てわかった上で、あえて選んだ自分の「表現」としての「写真」、どちらが強いのか、言うまでもない気がします。


僕はもっと写真を知りたい。この本を読み終えて、思ったことはこれでした。