フォビオン・ストーリーズ(4) ディック・ライアンの少年時代(その1)



フォビオン社には数多くの才能が集まったが、ディック・ライアンはその中でも、最も若いうちから世間に才能を認められていた一人だ。

ディック・ライアンはテキサス州エル・パソで生まれ育った。彼は地元の高校で卒業アルバムの写真撮影を担当しており、彼が卒業した1970年のアルバムには、4ページもの長さになる、フルカラーの360度のパノラマ写真が挟み込まれてい。この写真はディックが自分で作ったカメラた、高校の全景を写したものだ。

クラスメートから「エル・パソアインシュタイン」とよばれていたディック・ライアン。彼の卒業アルバムには、その才能を讃え、将来の成功を願う寄せ書きが無数に書き込まれている。

そんなクラスメートからの高評価とは裏腹に、ディックの両親は彼の才能をそれほど高くは買っていなかった。

「ディックがウェスティングハウス科学賞に応募しようとした時、彼はdiaphragm(レンズの絞り)の綴りを正確に書けなかったんだよ」とディックの父親は語った。「ディックは頭が悪いとか、そういうことを言いたいわけじゃない。普段は綴りを間違えたりはしないよ。でもdiaphragmを書こうとする時だけはなぜかパニックになってしまうんだ。カメラに関しても姉のエレンの方がすごかった。あの子はイーストマン社に入って最初のコダックのカメラをいくつも開発したしね

ライアン一家はエル・パソの静かな住宅街であるフィルモアアベニューに住んでいた。ディックの父であるウィリアム・L・ライアンJr.氏とその妻の間には全部で9人の子供がおり、教育熱心で有名だった。子どもたちは皆、父と同じオースティンハイスクールで学び、とりわけ数学や科学で優秀な成績を収めた。卒業後は全米各地の有名大学で数学や科学の学位を取り、兄弟の多くはサン・マイクロシステムズマイクロソフトなどのソフトウェア会社や、ビジネスコンサルタントとして働いている。

ディック・ライアンにはしかし、彼の兄弟たちほどの数学の才能はなかった。他の兄弟達がアイビー・リーグの大学に進んでいく中、彼はカリフォルニア工科大学Caltech)に進んで、研究室にこもり、地道な実験を行って失敗と成功を繰り返すという道を選んだ。ディックにとって、抽象的な概念である数学よりも、具体的な事象を相手にする科学のほうが、より魅力的だったのである。

1956年のある日、父ウィリアムが仕事から帰宅すると、当時4歳のディックがドアノブをバラバラに分解して、元に戻そうとしているところに出くわした。電力会社の主任技師だったウィリアムはドアノブの部品を調べ、4歳のディックが元に戻すのは難しいだろうと思った。ウィリアムは息子がこの経験から何かを学び、今後はこういったイタズラをしなくなることを願った。しかし1年後、ディックはもっと複雑なラジオを分解していた。

ディックが10歳の時、父ウィリアムは彼を自分の職場であるエル・パソ電力会社に連れて行き、そこで動いているリー&ノースラップ社のコンピュータを見せた。そのコンピュータは、当時で10万ドルもの値段で、二つの発電所の発電機を制御し、データを中央制御室に送信していた。

全てのコンピュータは二つの側面を持つ。アナログとデジタルである。コンピュータが現実世界と関わりあうとき、アナログ的な側面が必要になる。流体、波長、音、気温、気圧、現実に起こる自然現象は全て連続するアナログである。また、コンピュータが人間と関わる部分、ディスプレイ、マウス、スキャナー、マイク、その他の入出力機器も全てアナログである。

それに対して、コンピュータが内部で行っている計算は全てデジタルである。コンピュータは0と1からなる二進法の記号を、一秒間に数億から数兆という速度で計算している。アナログとデジタル、この二つの概念をつなぐものが、アナログ・デジタル変換、あるいはデジタル・アナログ変換をする回路である。

基本的にコンピュータ内部の計算はデジタルだが、シミュレーションなどの特殊な用途のためにアナログコンピュータも使われている。エル・パソ電力で使われているリーズ&ノースラップ社のコンピュータがそれだった。このアナログコンピュータは第二次大戦で使われていたレーダーや照準器の技術を元に作られており、ウィリアム氏も大戦中にアナログコンピュータを搭載した兵器を使用していた。このコンピュータは回路内部の電流を測定することで、電力網を流れる電流をシミュレートしている。コンピュータがこのシミュレートされた電流と発電所の電力の差を測定し、回路の電流を増減させることで、実際の電力網をコントロールする。このコンピュータがあれば電力網の管理コストを大幅に削減することができるのだ。

大戦中にアナログコンピュータを使用していたウィリアム氏は、上司に掛け合って、このリーズ&ノースラップ社のアナログコンピュータを導入するよう説得した。少年ディックはこの複雑なモーターとギアからなるアナログコンピュータの内部を見て、その精密さに心を奪われた。

ウィリアム氏はディックのために、自宅の車庫にある旋盤を使い、金属片から飛行機の模型を作って、それを無線で操縦し飛ばせるようにした。アナログコンピュータ、無線、旋盤、父が関わっているものは目で見てわかる、アナログで動作するものばかりだった。父を通じてこれらの機械と関わり合ったディックはいつしか、父と同じように現実世界にあるものを取り扱うようなエンジニアになりたいと思うようになった。

少年ディックがエンジニアへの道を歩み始めるきっかけを作ったのは父の影響と、キッチンの横にある工作室だった。ディックはその部屋にこもり自分の興味の赴くまま、あらゆる科学実験に没頭した。

ディックは部屋に暗幕を張って暗室を造り、自分の体と同じくらいの大きさの現像タンクをしつらえて、天井から1.5mの長さのフィルムをぶら下げ始めた。工作室には大小様々の箱が乱雑に積み重ねられており、その中には安物のジャンクレンズや、コダックE3現像ガイドブック、黒ペンキの缶、その他普通の人が見たら何かわからないようなガラクタが詰め込まれていた。

ディックはキッチンの流しで現像をよく行っていたが、そこは料理の下ごしらえをする場所でもあった。彼は有物質を含む現像用の液体をビールの空き瓶に保存していた。何も知らない家族がそれをビールと間違って飲むことがなかったのは幸いだったに違いない。

父のウィリアムはディックがエンジニアになるための才能を持っていると考えていた。ディックが小学生の時のことだ。世界で初めて飛行中の弾丸の撮影に成功したという記事を読んで、ディックは同じことをやってみようと思い立った。父のガラージの中からストロボ撮影に使えそうな部品を探し出し、キセノンフラッシュと組み合わせた連写装置を作った。連写に必要な足りない部品は無線雑誌を見て自分で注文した。父に頼んで壁に向かってピンポン球を打ってもらい、それを撮影しようとしたが上手くいかなかった。部屋は暗くピンポン球がよく見えなかったし、一球打つ度に、ガラクタまみれの部屋を探して球を拾わなければならなかったからだ。

ディックはピンポン球を諦め、飛行中の生き物を撮影しようと思い立った。すでに12歳の時、新聞配達のアルバイトで、最初の自分のカメラであるオリンパス・ペンFを買っていた。それとトランジスタで制御したストロボを組み合わせて、箱のなかに閉じ込めた蛾が飛び出してくる瞬間を撮影しようとした。当時トランジスタは高価で、大量の電流を流せなかったので、ストロボ撮影をするためには電圧を下げる必要があると、ウィリアムはディックにアドバイスした。

ディックは電圧の問題を解決するために、工作室のガラクタの中から使えそうな部品を探した。そして、昔使っていたカメラの機材に真空管があるのを見つけると、それをストロボに接続した。真空管を使ったフラッシュは撮影にタイムラグができるが、高い電圧をかけられるので、高速シャッターでも十分な光量が確保できる。ディックは箱の中に蛾を閉じ込め、部屋の反対側にランプを置いた。箱から飛び出した蛾は光源に向かって飛んで行く。そして、ピントが合わせられた場所に蛾が来た時、ストロボを焚いてシャッターを切。そうやってディックが撮った飛行中の蛾の鮮明な写真は、今でもライアン家に大切に保管されている。