写真が上手くなりたいんだがどうしたもんか(最終回)

前回のまとめ


僕はネットの上手い人の真似をしてるだけなので、結局行き詰まってしまったよ。

ホンマタカシもしんぞーさんも「上手い写真見ろ」「それを身体化しろ」と言ってるので、それを信じるよ。

とりあえず土門拳の写真の模倣からトレーニング始めるよ。


という話でした。



さて、これで今回の連載は当初の目的を達成したので、これ以上書くことは何もないのですが、一応あとがきというか、そもそも何でこんな連載始めたのかについてちょっと書いてみます。

きっかけはしんぞーさんのDP1 Merrillのキャンペーンです。しんぞーさんはここで明確に「DPはアートを撮るカメラ」だと宣言することを、表に出してきたんじゃないかと思います。

DP2 Merrillのキャンペーンも似たようなことを感じたんですが、まだ撮影場所の選定に意図を感じました。DP2 Merrillの描写力、解像力を全面に出すために、イスラム建築の極地である「モロッコのパターンを撮る」ことの方が大事なように感じました。

もちろん、そのキャンペーンは大当たりして、DP2 Merrillは大ヒットするんですけど、その売れ方はひょっとすると「等倍でも解像してる!」ことが何よりも重視され、それ以外のDPが持つ要素がスポイルされてるんじゃないか?という危機感を、しんぞーさんは持ったんじゃないかと勝手に思ってます。

だって、写真にとって「等倍でも解像してる」ことなんか、ぶっちゃけどーでもいいことじゃないですか。

カメラにとっては「良い写真が撮れるかどうか」が大事なわけだし、そういう意味でDP Merrillは「良い写真が撮れる」「表現のできる」カメラなんですよ。


DP1 Merrillのキャンペーンは写真家のポール・タッカー氏一人を選んで、氏の故郷であるオレゴンを撮ってもらうよう依頼したものです。しんぞーさんはたぶん、DPはそのコンパクトさがゆえに、個人の生活に密着して、なおかつ、それがそのままアートになる、そういう変化をもたらすカメラだということを表現したかったんだと思います。

ポール・タッカー氏のブログ記事を読んだ時、僕は心の底から震えました。そして、それを読んでDP1 Merrillの写真を見て、また同じくらい震えました。僕はその記事を日本語に訳しましたけど、どうやってこの言葉を英語から日本語に直すべきか、ものすごく悩みました。今自分が出来うる限りの日本語の知識を使って訳しましたけど、どれだけタッカー氏の心の震えが表現できたのか、正直自分でもよくわかりません。


しんぞーさんは、僕らをネクスト・レベルに引き上げようとしてるんだと、そういう意図を感じました。等倍にして写ってるのを見るだけの所から飛躍して、写真を写真として見た時、ちゃんと表現になっているか、それが人の心に伝わるだけの力を持っているか、それを目指すべきだと。そして、DPはそれができるカメラだと。そう言いたいんだろうなと、僕は感じました。


しんぞーさんの意図はDP3 Merrillのキャンペーンで、その極地に達します。セイケトミオによって撮られたプラハの写真は圧倒的でした。その色彩、被写体、構図、何もかもが今まで見てきたどのカメラのサンプルともかけ離れた、圧倒的な「表現」の実例でした。


これが、表現だ。これが、写真だ。これを、撮れ。


僕はこれに、応えなければいけない。「成長しろ、DPならそれができる」としんぞーさんは言っている。その言葉を聞いて、僕はどうすべきか。

停滞か、前進か

僕は前に進むと決めました。今までと同じ写真は二度と撮らない。圧倒的な表現を身につけてやろう。圧倒的な写真を撮ってやろう。フォビオンならそれができる。あとは、僕が変われるかどうかだ。



前回書いた結論、上手くなるためにはとりあえず過去の名作を模倣し、血肉化するという方法論は、既にホンマタカシの本を読んだ3年前に「いつかやろう」と決めていました。残念ながら、当時の僕は仕事も生活もままならない状態だったので、とりあえず生活の基盤を安定させて、それからやろうと思ってたので、今回はいいタイミングでした。

ということで、しんぞーさんにはいつも感謝しています。ありがとうございました。


あとは僕は、実践するだけです。


そして、こんな私的な連載を最期まで読んでくれた方には心から感謝します。ありがとうございました。