シグマSD1レビュー&645D、M9、α900との比較(その6)

その5の続き


SD1レビュー by ニック・デブリ

ニックはミハエルとともにSD1のテスト撮影に参加し、他のカメラとの比較にも協力した。以下はニックによるSD1のレビューである。



市場に出ている多くのカメラが同じ方向に向かって進歩していく中、シグマは常に独自の道を歩み続けてきた。

シグマは魅力的なレンズを発売するメーカーというだけではなく、フォビオンセンサーを守り続ける唯一のメーカーでもある。フォビオンセンサーは理論的に、既存のベイヤーセンサーを即座に終わらせるだけのポテンシャルがあると言われている。それゆえに、今回のSD1のテスト撮影に参加できたことはとても楽しい出来事だった。

新型の1500万画素のイメージが出力できるセンサーは旧来のシグマのカメラに比べて3倍の画素数を持ち、デジタル中判にも迫るほどの値段で売られているカメラだ。目のくらむような代物である。さて、その実態はいかなるものだろうか。


画質の善し悪しこそがこのカメラを論じる時に最も重要なことだ。しかし、私自身はミハエルほど長い期間SD1で撮影をしていないので、この部分の評価はあまりできないことを最初に断っておく。

私が見るかぎり、SD1は2450万画素のソニーα900と同等の性能を持っているが、ライカM9には少し劣るという印象である。645Dとの比較では完敗だ。

ディスプレイ上で見るとミハエルの主張と同様、私もα900よりSD1の方がよりディテールを保っていると思う。13 x 19インチ(33 x 48 cm)のプリントではその差を認識することは難しい。645Dはディスプレイ上ではSD1よりもディテールを保っているが、これもプリント上だとあまり差は感じられなくなる。

カメラの比較では多くの人が大きいプリントでの比較は必要だと思っているが、実際にプリントするのはなかなか大変だ。今回私たちはそのような巨大なプリントも試してみたが、結果は645Dの画像が最も優れており、SD1とα900の画像は似たり寄ったりだった。


SD1をAPS-Cサイズのカテゴリーとして考えると、その性能は信じられないものだ。APS-Cサイズのセンサーは今ではコンパクトカメラにも使われており、富士フィルムのX100などはその好例だ。シグマも1つ前の世代のセンサーを使ったDP1を発売し、DPシリーズはとても高性能なコンパクトカメラとしてベストセラーになった。


本来ならこのレビューは2000ドルのAPS-Cカメラが、フルサイズの一眼レフにいかに匹敵するかについて書かれるはずだった。けれども、ご存知のように、その観点からこの記事を書くことは出来なくなってしまった。ミハエルが結論づけているように、SD1はとても素晴らしいカメラだ。デジタルカメラの歴史から見ても、SD1が成し遂げた進歩というのは特筆に値する。

しかし、一旦冷静になろう。SD1の性能はフォビオンファンが主張しているような、出力サイズの3倍の解像度には届いていない。SD1は4500万画素のカメラではないし、そのように主張すべきではない。デジタル中判に匹敵するというのもありえない。そもそもデジタル中判はそれほど多くの種類があるわけではないのだが、そのどれと比較してもSD1は競争相手にはならない。

しかし、それと同時に、SD1にはまだ隠されたポテンシャルがあるのではないかとも思う。現在のSPPではその性能を発揮できないだけなのかもしれない。SPPそのものは、他のカメラメーカーが提供する付属ソフトと同様、全く機能的ではないし、SPPのせいでSD1がより使いづらくなっている部分すらあると思う。

テストに参加したローレンスは最もフォビオンに熟達した優れたカメラマンの一人だが、彼のプリントを見ると私が考えていたよりも遥かに優れた画像がSD1で撮れることがわかった。つまり、問題なのはカメラではなく、撮影後のデータ処理なのだ。

シグマはAdobeやPhase Oneとすぐにでも協力してSD1のRAWを他のソフトでも現像できるようにすべきだ。私は個人的にSD1が成功するかどうかは現像ソフトメーカーと協力できるかどうかにかかっていると思う。


残りの問題はSD1のカメラとしての性能にある。私の印象ではSD1は「荒削りな未完成品」に近い。SD1には明らかに製品として悪い部分というのはない。カメラとしての機能はとても優れている。けれども、操作系は他のカメラと比べてもとりわけ優れているわけでない。

SD1は手にとても良くなじむし、フォーカスも正確だ。シャッターフィールもとても静かである。もし私がフォビオンの熱狂的なファンなら、SD1のボディにはすぐに慣れるだろう。けれども、例えば645Dと比較すると、SD1からはカメラを使っていることの喜びを感じられない。

やはりSD1は「それなりの」カメラだ。シグマのエンジニアはおそらくそのエネルギーを全てX3センサーに注ぎ込んだのだろう。それゆえ、ボディの質感は後回しにされ、それなりのものに仕上がった、ということなのだろう。

SD1が「それなりの」カメラである以上、話はここで終わりだ。というのも、それなりで良いカメラというのは、値段が1200ドルから2000ドルあたりの、中級のAPS-Cカメラまでだからだ。

けれども、SD1はそれよりも遥かに高値で売られている。善かれ悪しかれ、SD1の値段はプレミアムなものだ。それゆえ、話は全く別のものになる。

プレミアムなカメラというのは質感が高く、贅沢ではなければならない。その品質は長い時間が経っても色褪せないのものであり、手に持った時に肌で感じられるようなものでなければならない。ニコンのD3xがその典型である。645Dも同じだ。これらのカメラは手に持っただけで素晴らしいと感じられる。

単にカメラの操作がしやすいというだけでなく、使うことに喜びを感じられるのだ。ファインダーをのぞくとはっきりとしたイメージが目に飛び込んでくる。一つ一つの部品からその品質の高さが伺える。カメラに高い値段を出すユーサーは機能だけではなく高い質感をも求めているのだ。

同じような質感の違いは、2000ドルの専門店のスーツと、400ドルの量販店のスーツにも感じられる。2~3メートル離れて見れば、これらのスーツに違いは感じられない。けれども着ている人には、その違いははっきりとわかるのだ。高級なスーツは絹のガウンをかけているように、まるで重さを感じないものだ。ボタン一つとっても、近くで見るとその贅沢な造りは安物とは違う。明らかに、誰が見ても違いがわかるものだ。

SD1は400ドルのスーツだ。十分実用的だけれども、満足感は得られない。もしシグマの主張通り、画質がデジタル中判に匹敵するものだとしても、今の値段でSD1を買った人が満足するとは思えない。単純にSD1はフォード製の大衆車の造りなのに、レクサスと同じ値段設定だからだ。

繰り返すがSD1に悪い部分は何もない。SD1はそれなりに良く出来たカメラだ。けれども、この値段で売っている以上、それなりではダメなのだ。


結論

SD1はとても面白い、特別なカメラだ。けれども、シグマはSD1の現在の性能と可能性について良く考え、適切な値段をつける必要がある。

もし価格改定がなされたら、SD1は成功するだろうし、次世代のフォビオンセンサーはもっと素晴らしいものになるだろう。けれども、現在の値段が続けば、フォビオンとシグマの冒険はここで終わらざるを得ない。



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